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鷹狩りでの休憩中に濡れていた薪に小姓が火を中々つけられないことにキレて小姓を手打ちにし、小姓の父親が幕府に訴え出た事でついに秀忠や家光がキレてしまい、その後も行状が改まる気配が無い事で蟄居→改易→切腹のフルコース。
御三家同等の55万石、しかも駿遠甲と海もあり立地も好条件の上、駿河大納言の官位と将軍の弟として十分に遇されてるのになんで満足しなかったんかねぇ家康が五大老止まりだったら10万石もらえるかどうか、しかも好立地かどうかだってのにさ
長男の件で一応信長との因縁はあるから本能寺の件に家康も絡んでて首謀者筆頭の利三の娘である春日局がそれをネタに家康をゆすった可能性はありそう
西の丸の鴨の話もそうだけど、この人頭の出来はいいと言われてるのに考えが浅い。大井川の件なんて、西国の諸大名への備えのためにわざと橋をかけずにいたのに橋かけて、将軍がそこをのこのこ渡る姿を見せようとするとか頭悪すぎる。家光より父秀忠の方が幕府の権威を根底から揺るがそうとする忠長に腹立ってたと思う
母親が「国千代(忠長)は利発で健康で非の打ち所がない」と持て囃して父親も「出来の良し悪し云々もあるとはいえ健康ならまあいいか」となあなあしていたら、家康からすれば「竹千代(家光)は勉強嫌いで呑気とは聞いてはいるが、国千代(忠長)は癇癪起こすところがあるからどっちもどっちじゃ(意訳)」と寧ろ忠長を不安視していた(集団政治体制続けるならまだ大人しい家光のほうが忠長よりは安全で、忠長だと家臣の讒言等を無視して自分の意見押し通そうとする)家康が正しかったのかもしれない
この方をどなたと存ぜられる 駿河大納言忠長卿が忘形見 松平長七郎長頼君にあらせられるぞ!
忠長が糞な分だけ正之が可愛かっただろうなw
まあ時世が読めなかったんだよね…「上手くいけば兄上ではなく自分が将軍に…」という考えを捨てて、「全力で兄上の陰になり力にならなければ!」という考えを持てれば御三家の一角になれたろうに
お江の贔屓が酷すぎた。
幼少期にお江与とその周辺が竹千代を悪く言いまくってたんじゃないのかな竹千代に比べてお前は優秀と言われ続けて育った子が、成長後に兄を支えようとするようにはなれないと思う。
@@maksight503 その点は9代将軍家重と弟田安宗武と同じですかね障害持ちの兄家重ではなくて聡明な宗武を将軍にという声があり宗武もその気になっていたが結局家重が将軍に就任、宗武は登城禁止になりましたもんね
@@究極の救連皇 信長の気質を忠長に見出したんですかね?
家光と同じく春日局に養育されてれば間違いなく武田信繁や豊臣秀長クラスの弟になってたかもなそしたら保科正之と双肩をなして徳川を支えただろうに
最期は潔く自刃したんだね。いっその事出家するとかていう選択肢はなかったのか?
弟という存在は、叛意がなくとも始末されがち(国が割れる原因となるため)。それが戦国の世能あるを隠し、無害であることをアピールし、ひたすら恭順の意を示さねばならない
子供の頃パッとせず親からもあんまり愛されなかった子がその後兄弟姉妹でいちばん出世するパターンはけっこう多い。
背たかつたのたな母系は背が高いのでどうだったかな家光は父親の血を受け継いているけど
忠長のおじ松平忠輝も気性が激しく汚名返上の行いが同様にやることが全て裏目に出て改易、配流となった戦乱の世なら武将としての活躍したと言われる人で恐らく忠長も同じタイプだったのだろう残念ながら太平の御世ではその激しすぎる気性が仇となったという感じ
松平の血筋は基本荒々しいタイプが多い(基本短気ながらも長生きして自制を身に着けた家康や、多少は荒々しい面もあるとはいえ秀忠や幼少の頃は病弱で大人しいだけが取柄と言われた家光が例外に近い)から、その血筋が悪い方に出てしまったのか、母親が伯父の織田信長はうつけ者呼ばわりされていた程の破天荒な所に憧れていたからか才気煥発容姿端麗の方の忠長を贔屓した結果がこれとか両親の贔屓からの血筋に眠っていた悪い面が表面化したというか、戦が必要でない時代には不釣り合いだった不運か
何か可哀想になってきた
(享年)には、歳は附けない。 因みに、(行年)○○歳です。
もしも事件がなかったらもう1人の弟の正之は甥の家綱や綱吉を可愛がった忠長も可愛がったのだろうか
保科正之は家光だけでなく忠長からものすごく可愛がられました。武田信玄の次女の見性院と四女の松姫、武田旧臣の保科正光に育てられました。実直な性格だったそうで、この三人がきちんと育て上げたことが伺えます。
忠長の御乱行は『徳川実紀』に記載されている。この『徳川実紀』だが、正本が完成したのは天保14年(1844)のことであり、忠長の生きていた時代(1606~1634)から200年もの年月が経過しており信憑性に疑問がある。それに幕府側が「不都合な真実」を残すとも思えない。将軍職を巡る兄弟間の争い、確執と謀略の果ての忠長切腹ではなかったのか。そう考えると、「御乱行」の多くが捏造ではないかと思えてくるのは、果たして私だけだろうか。
徳川実記って、江戸時代の吾妻鏡的な存在?
ありえるけど御前試合とかは事実でしょ?
織田信行、伊達小次郎政道と被る。
駿河城御前試合はん??
長幼の序が優先されやすい世継ぎですが、兄がいるにも関わらず弟が当主になった例は前田利家と伊東祐吉(日向国大名伊東義祐の弟。実は義祐より先に大名になった)くらいしか知りませんが、他にいますかね。
当時は、乳母に嫡男を養育する風習があったにせよ、お江の方の溺愛と母の愛に飢えた兄家光の嫉妬が招いた忠長の悲惨な最期。
それです。個人的にですが、お江に好感がもてないのはここにあります。母が子に対する溺愛は家を滅ぼすという身近な教訓を見ているのに、自分も同じことをしてしまいました。家が滅亡ということはありませんでしたが兄弟の確執、兄が弟の命を奪うという悲劇を・・家光の嫉妬・・12歳の頃に自分であの世に逝こうとする行為をしたこともあるぐらい追い詰められていたそうです。さらに忠長の増長っぷりに爆発したと思います。
忠長は、本当に我儘じゃん秀忠およえのかたが甘やかしたから、悪いんじゃ無いのです大名の器にあらず
兄と対立した忠長は会ってもない大叔父・織田信行の人生をなぞってますね。過去の織田家(土田御前・信長・信行)の悲劇が、市姫(信行の妹)を仲介に、徳川家(江姫・家光・忠長)に遺伝した印象です。母と兄達の争いを見ながらもソレを反面教師にするよう江姫に説かなかった市姫にも原因がある気がします。
秀忠直系の血筋が絶えた理由が分かった気がする
この人って確か、松平長七郎の父親(時代劇の話)
駿河大納言忠長卿の忘れ形見!
長七郎は父親に似ずまともだな
@@榊原聖人 三宅宅兵衛他、周囲の人達が善良だったのが影響したと思いたいです。
@@榊原聖人 まともというか、あそこまで町人に溶け込んで、よろしくやれてるのは君子と呼ぶにふさわしいですね。
「俺の名前は引導代わり、迷わず成仏するがいい!!」
浅間山ではなく浅間神社では?
神獣とされた猿を〇した場所は駿府の賎機山の浅間神社(せんげんじんじゃ)ですね確かに解説動画が誤りだと思われます
家光より出来が良かった為に家光に疎まれて自刃させられたと言う説もあります。ご乱心は作り話が多かったとも。
「颯汰の国」ではその説を採用してますね。
猿を殺すエピソードは豊臣秀次にそっくりです💦
やはり葵徳川の高杉瑞穗役の徳川忠長は最高ですねw
重厚な配役が連なる中、忠長役の高杉瑞穂と小早川秀秋役の鈴木一真の棒読みの大根演技は際立っていたけどねw
自刃は徳川信康、大阪城の要求は徳川忠輝を思い浮べるエピソードでした。悲しい結末ですよね。
信康、忠輝、頼宜、頼房、家光、忠長、忠直、光圀、葵の人達は荒ぶる血が流れているな
甘やかされまくって与えられまくったら、調子にのって暴発してもおかしくない
忠長はどこか“幼い子供“のまま大人になってしまった印象すら覚えますね…
天海僧正(家康-家光派)と金地院崇伝(秀忠-忠長派)の因果関係や、崇伝への柳生宗矩の加担なども重要な人物だと思われますし、"あずみ"も柳生宗矩とかなりの因果関係があります。"あずみ"は天海僧正の下にいる女剣士。日本随一と言われる無形の位を習得します。
秀康も忠長も勝者の歴史に改竄された感ですな
上様の甥子様松平忠長公の忘れ形見の人かな?
「千代」は「松」を意味する言葉だそうで、その為か山内一豊の奥さんは「千代」とも「松」とも言われているそうです。国千代も「国松」とも呼ばれています。
「ハリスの旋風」ですか?
@@はらひろし-q1o それは石田国松。
親が子に対する依怙贔屓、偏愛、いつの時代でもありますね。これが、みんな不幸にすることを知らない。秀忠・お江与夫妻の最大の汚点は忠長を溺愛しすぎました。あの世で忠長にどう話をしたのか気になるところです。以前、山岡荘八先生の【徳川家光】を読んだことがありますが。。ここでも、忠長は才気走ったイケメンですに描写されております。家光も自信を無くしておりますが・・それをお福は以下の様に忠長の事とバッサリといっておりました「忠長さまは他人の事で涙を流すことができない」と・・
弟が兄貴に勝つというのはバトル漫画の世界だけ。歴史では弟より兄貴の方が人情家だし、兄貴が弟を倒すパターンが多い
弟が勝利したパターンは織田信長(異母兄・信広の謀反)と北条時宗くらいですかね?
庶流の兄を嫡出の弟が排除した例なら、他には今川義元と玄広恵探が戦った花倉の乱が有名ですね。嫡出の兄を弟が追い落とした例となると、長尾景虎(上杉謙信)が長尾晴景から家督を形式上は譲り受けたものの実際には奪い取ったというものがあります。
@@じろうコマ-q7m 長尾景虎(上杉謙信)は有力家臣の支持があったしなw わざわざ坊主だったのを還俗させているのだからいかに兄が家臣に支持されていないかわかるw
忠長の奇行は精神疾患よるものという説もありますよね でも家光も忠長を自害に追い込んだあと政務を執り行うこともできなくなり2年ほどうつ病で苦しんだといわれていますよね 回復しても身体の状態は安定せず48歳の若さで脳出血と思われる疾患で亡くなってしまうんですよね
この手の話で「奇行」だの「殺生」だのは、殺害するための大義名分としてでっちあげられてる可能性があるから油断がならんw
元々の松平家一族の血筋は短気で血気早い性格だったから晩年の家康や秀忠の性格の方がむしろ例外的なんだな。家光は葵徳川三代の頭良さげだがお坊ちゃんの性格として?
@@tif9590 そういえばタクシーで大暴れしたお身内もおられましたな
@@tif9590 秀忠の母親は西郷局で吉良家の出なんで あの当時だと名家の姫が母親w 家康自身は根は短気だぞw まあ反面我慢強く耐える気性もあったが幼児のときの織田家や今川家の人質時代のトラウマでそういう気性になったのだろw
@@changnabe2606 母親が家康と同じだけで 山賊の松平のDNAは一滴もないけどなw
長七郎や柳生十兵衛の再放送見てて悲劇の人という認識でしたがシグルイで180%違ってびびりましたがこっちの方が近そうですね
家光は将軍職こそ奪われず忠長による反乱も起きたりはしませんでしたが家康の不安が的中してしまいましたね…あの世の家康は秀忠が忠長に最初から長幼の序を守らせず過度に甘やかしてしまったことを関ヶ原での失態以上に激怒していたかも…
諸大名を巻き込んでの跡目争いにならなかったのは流石が江戸幕府
もし島原の乱が10年早く起こっていたら大変なことになっていたかもしれませんね。
辞世すら詠ませんとはね、、、
怨み(裏見)葵の家紋と言う話を子供の頃に聞き歴史大河や娯楽時代劇長七郎などで因縁があったんだよね〜と家光は春日局と家康の子とか言うとんでも説も含めて兄弟は他人の始まりなのかね
忠長の叔父・松平忠輝も、不行状を理由に家康から勘当されていて、ところが約300年後、ときの徳川宗家によりご赦免。その当時、チョイとばかり話題になりましたが、さて、この忠長の勘当はどうなっているのかな ?
葵徳川三代では家光に嫌われて秀忠が庇う構図だけど実際は逆で、秀忠に嫌われて家光が必死に庇ってたらしい
甲賀忍法帖バジリスク争いの元はこの人と家光の後継争いね
4:17あたり頼房でなく頼宣。頼房が徳川姓になったのが光圀元服の1636年、それまでは同腹の頼宣の分家と見做されていた。水戸家が御三家になったのは甲府家の家宣が6代将軍になってから。忠長に問題が無かったら駿河家として水戸家の代わりに御三家となっていた可能性が高い。
曹操しかり司馬懿しかりどんな英傑も3代目は凡愚になる。
曹叡は途中まではそうではなかったような・・・
某元総理の息子もそうだな(某元総理は二代目)
言われてみれば3でいいのいないな
足利義満「親父の義詮様は祖父の尊氏様の尻拭いというか、不安定な足利幕府の土台固めちゃんとしてくれていたし、余命幾ばくもない状態で一度罷免せざるを得なかったとはいえ有能な補佐管領の細川頼之殿をつけてくれたおかげで明徳の和約で南朝上手く言いくるめて朝廷1つにまとめたり、幕府の権威高めたりと足利幕府の最盛期は自分が作り上げた言われてると思いますが」
松平長七郎
時代劇で知ってはいたのですが、詳しい事情は知りませんでした。たいへん勉強になりました。有難うございます。ただ、すべてア宝刀化は疑わしいとも思ってます。勝者による飾り付けが有ったかもしれませんから。
これは秀忠とお江が悪いんよなあ。家康が家光を三代将軍と宣言したからよかったもののいかに国千代に対していいよいいよで育ててきたのが愚かなのかわかる
将軍になりそこねて乱行…騒動を起こす…。徳川家数代おきにありますね。
本来ならもしかすると駿府家という御四家が誕生していたかもしれない。
駿河家が存続されたなら、水戸家は徳川姓にならず、松平姓の一親藩となり御四家とはならなかっただろうね。
0:59長松は暗殺説があるな。正室のお江じゃないかと推測。
あくまでも時代劇ですが、長七郎江戸日記の親父さんね。😹家光も過大評価ですが、この人もあまり褒められた人でも無いかな。
4:19 頼房は最初から水戸でした。性格には後に紀州に異動した頼宣では?
『宇都宮吊り天井』のモデルに成った人物ですね。
この方が分をわきまえて、55万石でおとなしくしていれば、御三家の上の家格としてやっていけたのだろうけどな。幕末もこの家があれば薩長ごときに舐められずに済んだものを。
逆に薩長方の最主力になってた恐れもありますよね。
まあ最後は死刑判決だから、本人が死を拒んでも殺害されたと見るのが正しいかもね、横山光輝作では、家光が命まで取るつもりはなかったのに何故と?白白しかったし豊臣秀次も最後は同じかんじかな?
このチャンネルはいい時とダメな時の落差が激しいけど(笑)今回は良かったですね。安易にいわゆる家康判定を出さないのもよかったです。忠長は甘やかされて育っただけに、自我を抑えることができなかったんでしょう。なまじ将軍の弟だったから、成長して学ぶということもできなかったんじゃないかと思っています。
幼いころの教育の結果ってのは異母弟の正之が名君と言われたのと逆だよな。正之は信玄公の妹と元家臣に育てられたのが良かったな。
どうでもいい話だ、後は野となれ山となれ
家康や家光の正当性のために、お江や秀忠同様に誹謗中傷されてる。
弟が利発といえば、千原兄弟や中川家のイメージでしょうか。
おとぎぼうず
家光は秀忠でなく家康の子供ではないか?家康は老いて子供をもうけているので家光の父親でもおかしくない。秀忠は家康に遠慮して忠長に将軍職を譲れなかったのだろう
だったらそんな事しないで九男の義直を跡継ぎにしてるだろ家康は義直を溺愛してたんだぞ?わざわざ家光を将軍に据えなくても義直を秀忠の養子にさせて三代将軍継がせれば良かったでしょ
秀忠が諸悪の根源。
家康が「子供は極力乳母に養育させよ」という言いつけをお江怖さというか、家光(竹千代)を手元から放されてるの憐れんで忠長(国千代)は自分の手で育てさせてほしいというのを良かれと思って容認したら、同母兄弟の確執、家光系は7歳で夭折した家継の代で終わるまでは秀忠系は続いたとはいえ、紀州徳川(吉宗やその子供や一族からの御三卿、頼房の末裔慶喜もその御三卿の一橋家の養子)に徳川宗家を取られた結果論とはいえ秀忠も折角政治家として有能(軍事面は経験不足からか失敗も多いのと挽回する機会に恵まれず)ながら、ここがダメなんだよねぇ…
鷹狩りでの休憩中に濡れていた薪に小姓が火を中々つけられないことにキレて小姓を手打ちにし、小姓の父親が幕府に訴え出た事でついに秀忠や家光がキレてしまい、その後も行状が改まる気配が無い事で蟄居→改易→切腹のフルコース。
御三家同等の55万石、しかも駿遠甲と海もあり立地も好条件の上、駿河大納言の官位と将軍の弟として十分に遇されてるのになんで満足しなかったんかねぇ
家康が五大老止まりだったら10万石もらえるかどうか、しかも好立地かどうかだってのにさ
長男の件で一応信長との因縁はあるから本能寺の件に家康も絡んでて首謀者筆頭の利三の娘である春日局がそれをネタに家康をゆすった可能性はありそう
西の丸の鴨の話もそうだけど、この人頭の出来はいいと言われてるのに考えが浅い。
大井川の件なんて、西国の諸大名への備えのためにわざと橋をかけずにいたのに橋かけて、将軍がそこをのこのこ渡る姿を見せようとするとか頭悪すぎる。
家光より父秀忠の方が幕府の権威を根底から揺るがそうとする忠長に腹立ってたと思う
母親が「国千代(忠長)は利発で健康で非の打ち所がない」と持て囃して父親も「出来の良し悪し云々もあるとはいえ健康ならまあいいか」となあなあしていたら、家康からすれば「竹千代(家光)は勉強嫌いで呑気とは聞いてはいるが、国千代(忠長)は癇癪起こすところがあるからどっちもどっちじゃ(意訳)」と寧ろ忠長を不安視していた(集団政治体制続けるならまだ大人しい家光のほうが忠長よりは安全で、忠長だと家臣の讒言等を無視して自分の意見押し通そうとする)家康が正しかったのかもしれない
この方をどなたと存ぜられる 駿河大納言忠長卿が忘形見 松平長七郎長頼君にあらせられるぞ!
忠長が糞な分だけ正之が可愛かっただろうなw
まあ時世が読めなかったんだよね…
「上手くいけば兄上ではなく自分が将軍に…」という考えを捨てて、
「全力で兄上の陰になり力にならなければ!」という考えを持てれば御三家の一角になれたろうに
お江の贔屓が酷すぎた。
幼少期にお江与とその周辺が竹千代を悪く言いまくってたんじゃないのかな
竹千代に比べてお前は優秀と言われ続けて育った子が、成長後に兄を支えようとするようにはなれないと思う。
@@maksight503
その点は9代将軍家重と弟田安宗武と同じですかね
障害持ちの兄家重ではなくて聡明な宗武を将軍にという声があり宗武もその気になっていたが結局家重が将軍に就任、宗武は登城禁止になりましたもんね
@@究極の救連皇
信長の気質を忠長に見出したんですかね?
家光と同じく春日局に養育されてれば
間違いなく武田信繁や豊臣秀長クラスの弟になってたかもな
そしたら保科正之と双肩をなして徳川を支えただろうに
最期は潔く自刃したんだね。いっその事出家するとかていう選択肢はなかったのか?
弟という存在は、叛意がなくとも始末されがち(国が割れる原因となるため)。それが戦国の世
能あるを隠し、無害であることをアピールし、ひたすら恭順の意を示さねばならない
子供の頃パッとせず親からもあんまり愛されなかった子がその後兄弟姉妹でいちばん出世するパターンはけっこう多い。
背たかつたのたな母系は背が高いのでどうだったかな家光は父親の血を受け継いているけど
忠長のおじ松平忠輝も気性が激しく汚名返上の行いが同様にやることが全て裏目に出て改易、配流となった
戦乱の世なら武将としての活躍したと言われる人で恐らく忠長も同じタイプだったのだろう
残念ながら太平の御世ではその激しすぎる気性が仇となったという感じ
松平の血筋は基本荒々しいタイプが多い(基本短気ながらも長生きして自制を身に着けた家康や、多少は荒々しい面もあるとはいえ秀忠や幼少の頃は病弱で大人しいだけが取柄と言われた家光が例外に近い)から、その血筋が悪い方に出てしまったのか、母親が伯父の織田信長はうつけ者呼ばわりされていた程の破天荒な所に憧れていたからか才気煥発容姿端麗の方の忠長を贔屓した結果がこれとか両親の贔屓からの血筋に眠っていた悪い面が表面化したというか、戦が必要でない時代には不釣り合いだった不運か
何か可哀想になってきた
(享年)には、歳は附けない。 因みに、(行年)○○歳です。
もしも事件がなかったら
もう1人の弟の正之は
甥の家綱や綱吉を可愛がった
忠長も可愛がったのだろうか
保科正之は家光だけでなく忠長からものすごく可愛がられました。
武田信玄の次女の見性院と四女の松姫、武田旧臣の保科正光に育てられました。実直な性格だったそうで、この三人がきちんと育て上げたことが伺えます。
忠長の御乱行は『徳川実紀』に記載されている。
この『徳川実紀』だが、正本が完成したのは天保14年(1844)のことであり、忠長の生きていた時代(1606~1634)から200年もの年月が経過しており信憑性に疑問がある。
それに幕府側が「不都合な真実」を残すとも思えない。
将軍職を巡る兄弟間の争い、確執と謀略の果ての忠長切腹ではなかったのか。
そう考えると、「御乱行」の多くが捏造ではないかと思えてくるのは、果たして私だけだろうか。
徳川実記って、江戸時代の吾妻鏡的な存在?
ありえるけど
御前試合とかは事実でしょ?
織田信行、伊達小次郎政道と被る。
駿河城御前試合はん??
長幼の序が優先されやすい世継ぎですが、兄がいるにも関わらず弟が当主になった例は前田利家と伊東祐吉(日向国大名伊東義祐の弟。実は義祐より先に大名になった)くらいしか知りませんが、他にいますかね。
当時は、乳母に嫡男を養育する風習があったにせよ、お江の方の溺愛と母の愛に飢えた兄家光の嫉妬が招いた忠長の悲惨な最期。
それです。
個人的にですが、お江に好感がもてないのはここにあります。
母が子に対する溺愛は家を滅ぼすという身近な教訓を見ているのに、自分も同じことをしてしまいました。
家が滅亡ということはありませんでしたが
兄弟の確執、兄が弟の命を奪うという悲劇を・・
家光の嫉妬・・
12歳の頃に自分であの世に逝こうとする行為をしたこともあるぐらい追い詰められていた
そうです。
さらに忠長の増長っぷりに爆発したと思います。
忠長は、本当に我儘じゃん秀忠およえのかたが甘やかしたから、悪いんじゃ無いのです大名の器にあらず
兄と対立した忠長は会ってもない大叔父・織田信行の人生をなぞってますね。
過去の織田家(土田御前・信長・信行)の悲劇が、市姫(信行の妹)を仲介に、徳川家(江姫・家光・忠長)に遺伝した印象です。
母と兄達の争いを見ながらもソレを反面教師にするよう江姫に説かなかった市姫にも原因がある気がします。
秀忠直系の血筋が絶えた理由が分かった気がする
この人って確か、松平長七郎の父親(時代劇の話)
駿河大納言忠長卿の忘れ形見!
長七郎は父親に似ずまともだな
@@榊原聖人 三宅宅兵衛他、周囲の人達が善良だったのが影響したと思いたいです。
@@榊原聖人
まともというか、
あそこまで町人に溶け込んで、よろしくやれてるのは君子と呼ぶにふさわしいですね。
「俺の名前は引導代わり、迷わず成仏するがいい!!」
浅間山ではなく浅間神社では?
神獣とされた猿を〇した場所は
駿府の賎機山の浅間神社(せんげんじんじゃ)ですね
確かに解説動画が誤りだと思われます
家光より出来が良かった為に家光に疎まれて自刃させられたと言う説もあります。ご乱心は作り話が多かったとも。
「颯汰の国」ではその説を採用してますね。
猿を殺すエピソードは豊臣秀次にそっくりです💦
やはり葵徳川の高杉瑞穗役の徳川忠長は最高ですねw
重厚な配役が連なる中、忠長役の高杉瑞穂と小早川秀秋役の鈴木一真の棒読みの大根演技は際立っていたけどねw
自刃は徳川信康、大阪城の要求は徳川忠輝を思い浮べるエピソードでした。
悲しい結末ですよね。
信康、忠輝、頼宜、頼房、家光、忠長、忠直、光圀、葵の人達は荒ぶる血が流れているな
甘やかされまくって与えられまくったら、調子にのって暴発してもおかしくない
忠長はどこか“幼い子供“のまま大人になってしまった印象すら覚えますね…
天海僧正(家康-家光派)と金地院崇伝(秀忠-忠長派)の因果関係や、崇伝への柳生宗矩の加担なども重要な人物だと思われますし、"あずみ"も柳生宗矩とかなりの因果関係があります。"あずみ"は天海僧正の下にいる女剣士。日本随一と言われる無形の位を習得します。
秀康も忠長も勝者の歴史に改竄された感ですな
上様の甥子様松平忠長公の忘れ形見の人かな?
「千代」は「松」を意味する言葉だそうで、その為か山内一豊の奥さんは「千代」とも「松」とも言われているそうです。国千代も「国松」とも呼ばれています。
「ハリスの旋風」ですか?
@@はらひろし-q1o
それは石田国松。
親が子に対する依怙贔屓、偏愛、いつの時代でもありますね。
これが、みんな不幸にすることを知らない。
秀忠・お江与夫妻の最大の汚点は忠長を溺愛しすぎました。
あの世で忠長にどう話をしたのか気になるところです。
以前、山岡荘八先生の【徳川家光】を読んだことがありますが。。
ここでも、忠長は才気走ったイケメンですに描写されております。
家光も自信を無くしておりますが・・
それをお福は以下の様に忠長の事とバッサリといっておりました
「忠長さまは他人の事で涙を流すことができない」と・・
弟が兄貴に勝つというのはバトル漫画の世界だけ。歴史では弟より兄貴の方が人情家だし、兄貴が弟を倒すパターンが多い
弟が勝利したパターンは織田信長(異母兄・信広の謀反)と北条時宗くらいですかね?
庶流の兄を嫡出の弟が排除した例なら、他には今川義元と玄広恵探が戦った花倉の乱が有名ですね。
嫡出の兄を弟が追い落とした例となると、長尾景虎(上杉謙信)が長尾晴景から家督を形式上は譲り受けたものの実際には奪い取ったというものがあります。
@@じろうコマ-q7m 長尾景虎(上杉謙信)は有力家臣の支持があったしなw わざわざ坊主だったのを還俗させているのだからいかに兄が家臣に支持されていないかわかるw
忠長の奇行は精神疾患よるものという説もありますよね でも家光も忠長を自害に追い込んだあと政務を執り行うこともできなくなり
2年ほどうつ病で苦しんだといわれていますよね 回復しても身体の状態は安定せず48歳の若さで脳出血と思われる疾患で亡くなってしまうんですよね
この手の話で「奇行」だの「殺生」だのは、殺害するための大義名分としてでっちあげられてる可能性があるから油断がならんw
元々の松平家一族の血筋は
短気で血気早い性格だったから
晩年の家康や秀忠の性格の方がむしろ例外的なんだな。
家光は葵徳川三代の頭良さげだがお坊ちゃんの性格として?
@@tif9590 そういえばタクシーで大暴れしたお身内もおられましたな
@@tif9590 秀忠の母親は西郷局で吉良家の出なんで あの当時だと名家の姫が母親w 家康自身は根は短気だぞw まあ反面我慢強く耐える気性もあったが幼児のときの織田家や今川家の人質時代のトラウマでそういう気性になったのだろw
@@changnabe2606 母親が家康と同じだけで 山賊の松平のDNAは一滴もないけどなw
長七郎や柳生十兵衛の再放送見てて悲劇の人という認識でしたがシグルイで180%違ってびびりましたがこっちの方が近そうですね
家光は将軍職こそ奪われず忠長による反乱も起きたりはしませんでしたが家康の不安が的中してしまいましたね…
あの世の家康は秀忠が忠長に最初から長幼の序を守らせず過度に甘やかしてしまったことを関ヶ原での失態以上に激怒していたかも…
諸大名を巻き込んでの跡目争いにならなかったのは流石が江戸幕府
もし島原の乱が10年早く起こっていたら大変なことになっていたかもしれませんね。
辞世すら詠ませんとはね、、、
怨み(裏見)葵の家紋と言う話を子供の頃に聞き歴史大河や娯楽時代劇長七郎などで因縁があったんだよね〜と
家光は春日局と家康の子とか言うとんでも説も含めて兄弟は他人の始まりなのかね
忠長の叔父・松平忠輝も、不行状を理由に
家康から勘当されていて、ところが約300年後、
ときの徳川宗家によりご赦免。
その当時、チョイとばかり話題になりましたが、
さて、この忠長の勘当はどうなっているのかな ?
葵徳川三代では家光に嫌われて秀忠が庇う構図だけど
実際は逆で、秀忠に嫌われて家光が必死に庇ってたらしい
甲賀忍法帖バジリスク争いの元はこの人と家光の後継争いね
4:17あたり頼房でなく頼宣。頼房が徳川姓になったのが光圀元服の1636年、それまでは同腹の頼宣の分家と見做されていた。水戸家が御三家になったのは甲府家の家宣が6代将軍になってから。忠長に問題が無かったら駿河家として水戸家の代わりに御三家となっていた可能性が高い。
曹操しかり司馬懿しかり
どんな英傑も3代目は凡愚になる。
曹叡は途中まではそうではなかった
ような・・・
某元総理の息子もそうだな
(某元総理は二代目)
言われてみれば3でいいのいないな
足利義満「親父の義詮様は祖父の尊氏様の尻拭いというか、不安定な足利幕府の土台固めちゃんとしてくれていたし、余命幾ばくもない状態で一度罷免せざるを得なかったとはいえ有能な補佐管領の細川頼之殿をつけてくれたおかげで明徳の和約で南朝上手く言いくるめて朝廷1つにまとめたり、幕府の権威高めたりと足利幕府の最盛期は自分が作り上げた言われてると思いますが」
松平長七郎
時代劇で知ってはいたのですが、詳しい事情は知りませんでした。
たいへん勉強になりました。有難うございます。
ただ、すべてア宝刀化は疑わしいとも思ってます。
勝者による飾り付けが有ったかもしれませんから。
これは秀忠とお江が悪いんよなあ。家康が家光を三代将軍と宣言したからよかったものの
いかに国千代に対していいよいいよで育ててきたのが愚かなのかわかる
将軍になりそこねて乱行…騒動を起こす…。徳川家数代おきにありますね。
本来ならもしかすると駿府家という御四家が誕生していたかもしれない。
駿河家が存続されたなら、水戸家は徳川姓にならず、松平姓の一親藩となり御四家とはならなかっただろうね。
0:59
長松は暗殺説があるな。正室のお江じゃないかと推測。
あくまでも時代劇ですが、長七郎江戸日記の親父さんね。😹家光も過大評価ですが、この人もあまり褒められた人でも無いかな。
4:19 頼房は最初から水戸でした。
性格には後に紀州に異動した頼宣では?
『宇都宮吊り天井』のモデルに成った人物ですね。
この方が分をわきまえて、55万石でおとなしくしていれば、御三家の上の家格としてやっていけたのだろうけどな。幕末もこの家があれば薩長ごときに舐められずに済んだものを。
逆に薩長方の最主力になってた恐れもありますよね。
まあ最後は
死刑判決だから、本人が死を拒んでも
殺害されたと見るのが正しいかもね、
横山光輝作では、家光が命まで取るつもりはなかったのに何故と?
白白しかったし
豊臣秀次も最後は同じかんじかな?
このチャンネルはいい時とダメな時の落差が激しいけど(笑)今回は良かったですね。安易にいわゆる家康判定を出さないのもよかったです。忠長は甘やかされて育っただけに、自我を抑えることができなかったんでしょう。なまじ将軍の弟だったから、成長して学ぶということもできなかったんじゃないかと思っています。
幼いころの教育の結果ってのは異母弟の正之が名君と言われたのと逆だよな。
正之は信玄公の妹と元家臣に育てられたのが良かったな。
どうでもいい話だ、後は野となれ山となれ
家康や家光の正当性のために、お江や秀忠同様に誹謗中傷されてる。
弟が利発といえば、千原兄弟や中川家のイメージでしょうか。
おとぎぼうず
家光は秀忠でなく家康の子供ではないか?家康は老いて子供をもうけているので家光の父親でもおかしくない。秀忠は家康に遠慮して忠長に将軍職を譲れなかったのだろう
だったらそんな事しないで九男の義直を跡継ぎにしてるだろ
家康は義直を溺愛してたんだぞ?
わざわざ家光を将軍に据えなくても
義直を秀忠の養子にさせて三代将軍継がせれば良かったでしょ
秀忠が諸悪の根源。
家康が「子供は極力乳母に養育させよ」という言いつけをお江怖さというか、家光(竹千代)を手元から放されてるの憐れんで忠長(国千代)は自分の手で育てさせてほしいというのを良かれと思って容認したら、同母兄弟の確執、家光系は7歳で夭折した家継の代で終わるまでは秀忠系は続いたとはいえ、紀州徳川(吉宗やその子供や一族からの御三卿、頼房の末裔慶喜もその御三卿の一橋家の養子)に徳川宗家を取られた結果論とはいえ秀忠も折角政治家として有能(軍事面は経験不足からか失敗も多いのと挽回する機会に恵まれず)ながら、ここがダメなんだよねぇ…